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現在のホーエンヤ祭の様子
ホーエンヤ祭りで船に乗って千代川河口付近を下る海上行列。昭和はじめ〜戦前の写真と思われます。当時は現在のような箱船ではなく、2〜3隻の大型の船に分かれて乗っていました。向かって右の船に御神輿や榊・鉾などが、左の船に幟武者らが乗っているのがわかります。またその周りを数隻のホーエンヤ伝馬船が回っています。河口の対岸はまだ一面が砂浜でした。遠くに駟馳山(しちやま)がうっすらとみえます。
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現在の神社下の風景
賀露神社下のイトバの様子。戦前の写真と思われます。現在は千代川沿いに県道が通っていますが、戦前は神社の石段を下るとすぐイトバがありました。江戸時代までは神社下のこのあたりには藩の「船手番所(御番所)」が置かれ、千代川へ出入りする船の乗員や積荷をチェックしていました。
中央にみえるのは宮司宅。かつては神社下にありましたが、宝暦12年(1762)7月、社宅に砂が流れ込んだため、第39代宮司岡村左門が藩に願い出て梢上の地に家を移した、と「因府年表」に記されています。
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賀露は砂地が多く、地びき網(タイ網)漁が盛んでした。
かつて賀露には「網持(あじ)屋」とよばれる網元が数軒あり、千代川の東と西の浜で地びき網漁を行っていました。台場跡(現在の派出所のあたり)や米倉(よなぐら)と呼ばれる小山に見張り場があり、「岡見」と呼ばれる見張り役が魚の大群をみつけて「はみだ、はみだ!」と叫んで帰ってくると、漁師たちは一斉に船を降ろして魚群を取り囲んで捕獲しました。
当時は子どもたちも漁を最優先とし「網が出たぞー」と知らせが入ると、授業を中断して浜に行き、地びき網を手伝ったということです。
昭和7年(1932)7月、突然マグロ(このあたりでは「シビ」と呼んでいました)の大群が賀露西浜の海岸近くに押し寄せました。この3枚の写真はそのときの漁の様子を写したものです。
古老でも見たことがないという数百頭のマグロが押し寄せ、大人から子どもまで村をあげて一網打尽につかまえました。すべて取り上げるのに数日間かかったとのことです。1頭2〜3円で、当時網持屋は一時的に成金になったといわれています。
(写真提供:浜口哲太郎氏)
*「網持屋」については、古網多賀司氏にご教示を賜りました。記してお礼申し上げます。
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現在の「吉備真備杯奉納囲碁大会」の様子(平成20年)
これは昭和4年(1929)の囲碁大会の様子です。
この年、「吉備公千百五十年祭」が町内あげて執り行われ、吉備真備公が日本に囲碁を伝えたという伝承から、このような囲碁大会も開催されました。
神社周辺の松林にゴザや座布団を敷いて、各自が碁盤を持ち寄って対局を楽しみました。
参加者は羽織・着物姿で、遠くには女学生の姿もみえます。半袖の人もいることから季節は初夏の頃でしょうか。
賀露神社では平成20年から「吉備真備杯奉納囲碁大会」が開催されており、今年で4回目を迎えます。吉備真備公を顕彰する精神は現在に受け継がれています。
戦前の奉納相撲大会(昭和はじめ頃)。大勢の見物人で賑わっている様子がよくわかります。 |
奉納相撲に参加する地元の青年力士たち(昭和3年頃)。漁師町らしいたくましさが感じられます。 |
先に泣いた方が勝ち!という赤ちゃん泣き相撲。少年相撲とともに江戸時代以来の出世相撲の精神を受け継いでいます
江戸時代の因幡地方では相撲が盛んでした。賀露神社でも「勧進相撲」「八朔相撲」「出世相撲」などと称して多くの青年力士が相撲をとっており、各地から多くの見物客が集まったといわれています。
その風潮は戦前まで続いており、現在も県内各地に力士を顕彰する力士塚が建てられています。賀露においても東善寺付近を中心に「山野井鷲之助」「大和川徳五郎」「響灘作五郎」など計17基の力士塚がみられます。
この2枚の写真は戦前の賀露神社の相撲大会を写したもので、多くの見物客で賑わっている様子がわかります。
勧進相撲の名残は戦後までみられ、賀露神社では地元の青年力士による奉納相撲が秋の祭礼日に合わせて行われていました。昭和30年代後半からは、青年力士の減少により、小学生による「出世相撲」が行われるようになりました。
平成元年からは小学生の相撲大会とともに、1歳前後の赤ちゃんが参加する「赤ちゃん泣き相撲」が開催されるようになりました。
大正15年(1926)当時の賀露港の様子。船着き場のあたりに大量の貝殻が積まれています。この貝殻を埋め立てて「貝殻屋敷」がつくられました。 |
上の写真と同じ時期のイタヤ貝豊漁の様子。大漁旗を掲げた船の前に大量の貝殻が積まれています。 |
現在の貝殻屋敷の様子(中央の家並み)。かつて貝殻を埋め立てた場所に現在も多くの家屋が建ち並んでいます。左側の道路は上の写真の川沿いの道。
当時の賀露には多くの加工場があり、各地で身剥きの作業が行われていました。そして、作業が終わると、貝殻は船着き場のあたりに捨てられました。
その後、この大量の貝殻はやがて埋め立てられ、その上には家屋が建てられていきます。
このようにして造られた住居地は「貝殻屋敷」と呼ばれました。しかし、この貝殻屋敷の地盤は弱く、沈下することもあったため、家を持ち上げて地盤を固める工事がしばしば行われたと言われています。
その後、昭和に入り、漁業の発達や道路の建設など重要港湾としての整備とともに賀露も戸数が増え、丘陵下から海側にかけて家々がひしめき合うように軒を連ねるようになりました。俗に「賀露千軒」と呼ばれる現在の町並みはこうして形成されていくのです。
昭和6年1月13日に行われた八千代橋の渡り初め式。雪の降る中、神官を先頭に大勢の人たちが渡り初めを行いました。先頭を歩くのは賀露神社の第48代岡村吉敬宮司。 |
神官のあとに、親子三代夫婦が渡ります(写真中央)。三代夫婦のあとに、役人や大勢の人々が渡っています。当時の八千代橋は石橋でした。改修が行われた千代川も映っています。 |
八千代橋の渡り初め式に親子三代夫婦で参加した明治村松上の坂口伝十郎氏の家族
【解説】
これは昭和6年(1931)年1月13日に行われた八千代橋の渡り初め式の写真です。
鳥取市を流れる千代川は氾濫川として有名で、周辺の地域は古くから洪水に悩まされてきました。大正年間だけでも、1・2・7・12年と計4度の大洪水に見舞われています。そのため、千代川の改修は人々の悲願でもありました。
大正13年(1924)、千代川の改修工事が国の直轄事業として認められ、大改修工事が始まりました。工事は足掛け6年かけて行われ、昭和5年に終了し、八千代橋も竣工します。
昭和6年1月13日、八千代橋の渡り初め式が行われました。
現在の八千代橋。平成2年に架け替えられたものです。
あいにく雪の降り積もる寒い日でしたが、賀露神社の岡村吉敬宮司を先頭に、日本の伝統に乗っ取って親子三代夫婦が渡り初めを行いました。
このときの八千代橋の渡り初めには、気高郡明治村大字松上の坂口伝十郎氏の一家が選ばれました。右の写真はこのときのものです。
左から坂口伝十郎(76歳)、妻もよ(73歳)、伝太郎(53歳)、かめ(52歳)、伝三郎(29歳)、澄子(24歳)の三代夫婦です。
これは、一家で三代夫婦が同居するのは稀で、この家族にあやかって橋も永続してほしいという意味が込められていると言われています。平成21年度の伊勢神宮の宇治橋の架け替えのときも三代夫婦が渡り初めを行いました。
現在の八千代橋は修繕が進み、かつての面影は残っていませんが、千代川の東西を結ぶ架け橋として、今なお、鳥取市民の生活を支えています。
鳥取の歴史を物語る貴重な一枚です。
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また、右の写真も賀露村の一部です。場所は不明ですが、瓦屋根の家が倒壊している様子が見て取れます。注書によれば「地盤隆起したことによって家屋が倒壊した」とあります。写真の手前に地面が盛り上がっているところがあり、地盤が隆起した様子が確認できます。
このように、賀露も鳥取大震災の影響を大きく受けていました。戦前の賀露の様子を物語る貴重な写真です。
(写真提供:鳥取県立公文書館)