紙本彩色『吉備大神遊碁御影』(賀露神社所蔵)。吉備真備公が唐の名人と囲碁の勝負をしている場面。真備公の背後に阿倍仲麻呂の幽霊が描かれている。
吉備真備(きびのまきび)公(695〜775)は奈良時代の学者で、兵法や経史にも通じたすぐれた政治家もありました。霊亀3年(717)と天平勝宝3年(751)に遣唐使として唐に渡り、儒学・律令・礼儀・軍事などを学び、囲碁をはじめ多くの書籍や器物を日本に伝えました。帰国後は大宰府長官や右大臣を歴任し、政界で活躍しています。
ボストン美術館が所蔵する『吉備大臣入唐絵巻(きびだいじんにっとうえまき)』には、入唐してきた吉備真備公の才能におそれをなした唐人たちが、真備公を幽閉し、博士や名人を遣わして『文選』の読解や囲碁の勝負を挑みますが、幽霊となった阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)の手を借りつつ難題を切り抜けるという話が描かれています。賀露神社にも真備公が唐の名人と囲碁の勝負をしている絵が残されています。
現在の鳥が島。吉備真備公が「取り上がり」になられた島と伝えられています。
賀露神社の社記によると、唐に渡った吉備真備公が、帰国の折に九州沖で風波の難に遭って漂流し、賀露沖の「宮島」に漂着されたとあります。その後宮島から約30m離れた「大島」に飛び上がって避難されたため、「大島」を「取り上がり島」と呼び、現在の「鳥ヶ島」の語源になったといわれています。
その後、真備公は賀露の住人の手によって助けられ、島から陸地へ船で奉曳(ほうえい)されました。現在の賀露神社の「ホーエンヤ祭」はこの故事にちなんでいます。また上陸直後に海水で汚れた着物を木箱に納めて埋めたと伝えられ、その地を「米倉(よなぐら)」または「脱衣塚(えなづか)」と呼び、現在も地名が残っています。
昭和4年に開催された囲碁大会。松林にゴザを敷き、各自が碁盤を持ち寄って対局を楽しみました。
宝亀6年(775)年に真備公が薨去(こうきょ)された後、賀露の人々はその神霊を賀露神社の御祭神としてお祀りしました。現在も学問の神様として氏子の人々のあつい信仰を集めています。
昭和4年(1929)には「吉備公千百五十年記念祭」を町内あげて執り行い、右の写真にみえるような盛大な囲碁大会も開催されました。また、真備公が帰朝される際、助けたお礼として村人に囲碁を伝えたという言い伝えにちなみ、平成20年(2008)年からは真備公の功績をたたえて「吉備真備杯囲碁大会」が毎年開催されています。