江戸初期の「寛文大図」(倉田八幡宮蔵)に描かれた賀露村。「軽村」と記されています。
鳥取市賀露(かろ)町は鳥取平野の中央部を流れる千代川の河口に位置する港町です。古くから日本海と国府・鳥取城を結ぶ海上交通の要地として重要視されてきました。
古来より「賀露」は地元では「かる」と呼ばれていました。史料にも「軽の浦」「かるの湊」などとみえます。千代川も下流の一部は「カル川」と呼んでいたようです。
また漢字の表記もさまざまで、「かる」は軽・加留・賀留・香留、「かろ」は加路・加露・賀呂など、いろいろな当て字が使われていました。
賀露の浜で安大夫(左端)から話を聞く橘行平(中央)一行。(京都・因幡堂蔵「因幡堂縁起絵巻」より)
「因幡堂薬師縁起(いなばどうやくしえんぎ)」(1425年成立、東寺観智院所蔵)には次のような話が載っています。
天徳3年(959)、京都の貴族橘行平(たちばなのゆきひら)は、天皇の使者として因幡一宮(宇倍神社)へお参りにやってきました。
無事参拝を済ませた行平ですが、その後病に倒れてしまいます。そのとき夢の中に1人の僧があらわれ「賀露の津に浮かぶ木を引き上げよ」と行平に告げます。
翌朝、行平ら一行はお告げとおり賀露の津にやってきました。そこで行平は「安大夫」という地元の90歳の漁師から、海底に40年間光り続けるものがあるという話を聞きます。
現在の東井神社(鳥取市用瀬町)の御本殿。かつて尚徳館にあった社殿を移したものです。
その結果、安政5年(1858)12月に京都から武甕槌命が賀露神社へ勧請されて御祭神に加えられ、翌年5月に賀露神社から尚徳館へ武甕槌命が勧請されました。以後、毎年、春と秋には盛大なお祭りが行われたということです。
以来、賀露神社においても吉備真備公と武甕槌命を「文武併進」の神様としてお祀りしており、現在も多くの学生たちが参拝に訪れています。
その後、尚徳館は明治3年(1870)に閉校となりますが、社殿の1つは鳥取市用瀬町に鎮座する東井(とうい)神社へ移されました。現在も同神社の御本殿として大切に守られています。
また、尚徳館の跡地には現在の鳥取西高等学校の前身にあたる第十五番変則中学校が創設されたほか、その後も師範学校や付属小中学校、鳥取女学校などが設立されました。
文武併進の理念は現在も県内の各学校に受け継がれています。
・参考文献:『鳥取藩史』第3巻
平成9年7月に出雲ドームで開催された「アジア海響」で再会を果たした3つの兄弟太鼓。1本の木からこのような3つの大太鼓が作られた例は他にはみられないと言われています。
賀露神社には口径120cm、胴回り450cm、胴長150cmの大太鼓があります。
これは、名和神社(鳥取県大山町)、美保神社(島根県美保関町)の大太鼓とともに、1本の大ケヤキから切り出された三大太鼓の1つで、山陰で3番目に大きな太鼓と言われています。
なぜこのような大きな太鼓が賀露神社にあるのでしょうか。
安政3年(1856)、八頭郡八頭町(旧八東町)妻鹿野(めがの)滝川地区の山林から樹齢千年を越える1本の大ケヤキが切り出され、ここから3つの太鼓が作られました。
ケヤキは乾燥させるため、2年間寝かされた後、同5年に八東町南村の沢田孫太夫・直十郎親子が願主となり、胴は日田村と高野村の大工が制作し、革張りは大坂と播磨の職人が行って完成させ、鳥取城に献上されました。
賀露神社下にあった御番所。千代川に出入りする船をチェックしたり運上銀を徴収していました。
「敵に塩を送る」という言葉があるように、塩は人間の生活にとって大切なものでした。
因幡国では古くから大谷・陸上(くがみ)・寺山・内野(内海?)・伏野・姉泊・園といった沿岸部で塩の生産が行われていました。国内で塩の生産量が減ってからは、下松・三田尻(現在の山口県)からも塩が因幡へ運ばれるようになり、それらは「下松塩」「三田尻塩」などと呼ばれました。
江戸時代、これらの塩は鳥取城下に運ばれましたが、千代川に入る際、賀露の河口に置かれた藩の「御番所」で「運上銀」(関税のようなもの)が徴収されていました。
賀露大橋の脇に立つ「釧路開拓移民団出港の地」記念碑。明治時代に多くの移住者が賀露港から北海道へ渡りました。
賀露大橋のたもとに「釧路開拓移民団出港の地」と記された記念碑が立っています。
明治17・18年、政府の移住政策のもと、多くの士族が鳥取県から北海道釧路の地へ移住しました。
当時の記録によれば、2年間で100戸の士族と5戸の師範農家が賀露から釧路へ渡ったとあります。
彼らは、東善寺に集合し、三菱会社が用意した船に乗って賀露港を出港し、敦賀・函館を経由して4日間かけて釧路へ入港しました。
希望を胸に北海道に渡った移住者たちですが、彼らを待ち受けていたのは、北の大地の想像を絶する寒さでした。住居はバラック作りで畳は1戸に6畳しかなく、壁や屋根は隙間だらけで、冬には雪が吹き込み、飯や醤油なども凍ったと言われています。
岩見沢にある東(ひがし)神社。鳥取県出身者が建立した鳥取神社と山口県出身者が建立した山地神社が明治39年に合祀されたものです。
それでも彼らは刀を鍬に持ち替え、未開の荒野を歯を食いしばって開墾し、現在の釧路市のもとになる「鳥取村」をつくりました。
今でも釧路市には、鳥取神社、鳥取小学校、鳥取大通りなど「鳥取」の地名が多く残っています。
鳥取からの士族の移住先は釧路だけではありませんでした。
明治18年6月、釧路と同じ100戸の士族が、賀露港から北海道の札幌市近郊にある岩見沢へ移住しています。
彼らは品川丸という船に乗って賀露港を出港し、小樽・札幌を経由して、岩見沢へ入植しました。
釧路と同様、厳しい寒さに耐えながら、2年かけて未開の原野を切り開いていったのです。
明治45年の利尻島長浜地区のニシン粕作りの様子。鳥取県からの移住者である秋里出身の伊佐田長蔵の経営する漁場でした。
明治時代、北海道へ移住したのは士族だけではありませんでした。
明治20年以降、鳥取県から多くの農民や漁民が北海道各地へ移住しました。彼らは「因幡衆」「鳥取団体」と呼ばれ、農業や漁業に従事しました。
この時代、賀露からも多くの人々が北海道に渡りました。特に明治20年代はオホーツク海でニシン漁が最盛期を迎えており、全国から多くの人々が漁場を求めて利尻島や稚内・宗谷地方へ移住しました。
北海道利尻島の役場に残されている名簿には、明治〜大正時代に利尻島や宗谷地方に渡った賀露出身者が記されています。
以下にその名前をあげてみましょう。
利尻山神社に立つ石灯籠。賀露出身者の名が刻まれています。
[利尻島]
小林宏義、浜本芳太郎、中村与太郎、島谷庄太郎、浜口千代造、
一川歌吉、米村長太郎
[稚内・宗谷]
越川重太郎、三谷市太郎、三谷米蔵、山本サヨ、中井啓一
この中には、島谷さんや越川さんのように、現在も毎年梨を送ったり年賀状をやりとりして交流している家もあります。島谷さんのご子孫で利尻富士町にお住まいの島谷(しまや)一昭さんの話によれば「鳥取からの移住者の家では今でも正月の雑煮は丸餅で小豆ぜんざい」だということです。
また、利尻島北部の利尻富士町鴛泊(おしどまり)にある利尻山(りしりざん)神社の境内には、賀露出身者が明治30年に神社に奉納した石灯籠が立っています。
そこには寄進者として以下の名が刻まれています。
賀露神社の裏鳥居脇にある石灯籠。北海道へ渡った成功者が奉納したものです。
寄進 明治三十年五月吉日
鳥取県因幡国気高郡加路村
竹田与三郎・沢山文四郎・小林長太郎
沢山久太郎・山辺久造・岸本常右衛門
一方、北海道の移住者が鳥取に寄進した例もあります。鳥取市晩稲の波津(はづ)神社にある鳥居や賀露神社の裏鳥居脇の石灯籠には北海道移住者の名が刻まれています。
これらは北海道に渡った移住者たちが成功をおさめ、故郷を思って産土(うぶすな)神社に寄進したものと思われます。
鳥取から1000km以上離れた北海道ですが、今も各地に賀露出身者が伝えたさまざまな歴史や文化が残されています。
そこには移住者たちの故郷に対する思いや成功者としての誇りが感じられます。
昭和15年の賀露神社の随神門(ずいじんもん)および石段。1200年以上前からこの地に鎮座していると言われています。
賀露神社が登場する最古の記録は平安時代に成立した『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』です。
『日本三代実録』は平安時代の清和(せいわ)、陽成(ようぜい)、光孝(こうこう)天皇の三代の記録を国家がまとめた正式な歴史書です。菅原道真や藤原時平らによって編纂され、延喜元年(901)年に成立しました。
古代の歴史書の中でも、特に記述が正確であるといわれ、869年に東北地方を襲った貞観地震と大津波に関する記述もこの中に出てきます。
今回はこの『日本三代実録』にみえる賀露神社について取り上げてみましょう。
現在の賀露港。鳥取城下と日本海を結ぶ千代川の河口に位置する賀露は16世紀の因幡国内でも要衝の地でした。
今から約500年前―世の中は群雄割拠の戦国時代を迎えていました。
この時代の因幡国は、尼子・毛利・織田といった周辺の大名たちの対立・抗争の狭間に置かれており、数多くの戦いが繰り広げられました。
数々の戦いの舞台となった鳥取城は、城下を流れる袋川や千代川を経由して日本海へ通じていたため千代川の河口に位置する賀露は因幡地方の中でも特に重要な地域の1つに位置づけられていました。
そのため、戦国時代の史料の中にはしばしば賀露が登場します。
今回は戦国時代の賀露をめぐる動きをいくつか取り上げてみたいと思います。
秀吉が2度攻めた鳥取城。吉川経家は「日本を代表する名山である」と絶賛しました。
(2) 天正8年(1580) 秀吉の第1回鳥取城攻め
また天正8年(1580)5月には羽柴秀吉(はしばひでよし・後の豊臣秀吉)が鳥取城を攻撃します。このとき秀吉は「加路辺」まで軍勢を送りこみ、鳥取城を広範囲に包囲しました(「山田家古文書」)。
このときの鳥取城攻めは秀吉が勝利をおさめますが、その後、鳥取城では秀吉に降伏した城主山名豊国が追放され、代わって石見国福光城(島根県温泉津町)の吉川経家が城番に命じられます。
経家は、天正9年(1581)3月に海路で因幡へやってきました。そして18日の朝に「加路」に到着し、そこで毛利方の武将たちの出迎えを受けて、午前10時頃に鳥取城に入っています(「吉川家文書」)。
賀露神社の「虎」の形をした狛犬(狛虎?)。全国にも例がない珍しい狛犬です。
神社にお参りすると、入り口や社殿の両脇で狛犬(こまいぬ)が我々を迎えてくれます。
狛犬は、神様をお守りし、参拝者の邪気を祓う神聖なる石像です。現在は石像が主流ですが、古い狛犬の中には木製のものもあります。
狛犬はふつう2匹が1対になっていて、神様から見て左側が口を開けた「阿形(あぎょう)」、右側が口を閉じた「吽行(うんぎょう)」となっています。阿形の中には玉を咥えているものもあります。両者が一体となって「あうん」の呼吸で邪気を排除し神様をお守りしているのです。
また姿勢もさまざまで、前足を揃えて座っている「座型」や、頭を低くして後足を上げている「構え型」など、地域や神社によってさまざまな形があります。
賀露神社が所蔵する古写真。手水鉢の側面に「在朝鮮統営 秋本岩蔵」とあります。写真の2人は秋本岩蔵夫妻と言われています。
では、なぜ賀露神社に虎の姿をした狛犬があるのでしょうか。
これを探る手がかりとして、台座には次のような文字が刻まれています。
「在朝鮮統営 秋本岩蔵」
「大正十一年 月」「鳥取 前田石工作所」
これによれば、この狛犬は秋本岩蔵という人が大正11年(1922)に賀露神社に寄進したものであることがわかります。秋本岩蔵氏はもともと賀露の出身で賀露神社の氏子でした。「統営」というのは朝鮮半島の南端にある「統営(トンヨン)」という港町のことで、「在朝鮮統営」とあることから、この時期に秋本氏は統営に在住していたと思われます。
古来より朝鮮半島では虎は神聖な動物であると考えられてきました。半島の各地には虎を題材とした民話や美術工芸品が数多く残されています。
これらのことを考え合わせると、この狛犬は、朝鮮半島の統営(トンヨン)に住んでいた秋本岩蔵氏が、朝鮮の神聖な動物である虎を形取った狛犬の制作を鳥取の石工に依頼し、大正11年に故郷の産土神である賀露神社へ奉納した可能性が高いと考えられます。
かつて「御番所」が置かれていた場所。江戸時代の賀露は鳥取城下の外港として重視されていました。
賀露神社の石段を下りて左に曲がると「神社前」のバス停近くに広い場所があります。
江戸時代、ここには「御番所(ごばんしょ)」と呼ばれる藩の役所が置かれていました。「御番所」は「御船番所(おふなばんしょ)」ともいい、千代川を通って鳥取城へ向かう船の積み荷などを取り調べるところです。
江戸時代、鳥取藩には沿岸警備や港の管理を行うために「御船手(おふなて)」と呼ばれる組織がありました。その御船手の出張所として、賀露・浦富・泊・赤崎・深浦・米子・浜ノ目(境)の7カ所に「御番所」が置かれました。
特に千代川河口に位置する賀露は鳥取城下の外港として重視されていたようです。
1 賀露の御番所の様子
これは個人が所蔵する江戸時代の御番所の絵図です。これをもとに、当時の御番所の様子についてみてみましょう。
御番所は賀露神社の鎮座する丘陵のふもとに位置していました。丘陵の中腹には宮司宅が立っています。御番所は石垣の上に建ち、周りには柵がめぐらされていました。建物は政務をする役所と役人たちの住居に分かれていたようです。
当時は御番所の北側は海に面していました。現在は埋め立てられて道路になっています。正面に石段(イトバ)がありますが、ここで荷物などを下ろしたと思われます。
また絵の中央左の入り口付近には大きな高札(こうさつ:立て札)が立っていました。ここには「御番所の前で魚を捕ってはいけない」などの決まりごとが記されていました。
よくみると、絵の右下あたりの川の中にも高札が立っています。このことから、当時このあたりが浅かったことがわかります。別の絵図には「御番所前通り、深さ五尺計」と書かれています。このことから御番所の前の水深は5尺=約1.6m程度であったものと思われます。
歌川広重『六十余州名所図絵』の「因幡 加路小山」図。因幡国内の景観を描いた絵はこの1点しかありません。左手に湖山池、右手に賀露が描かれています(鳥取市歴史博物館蔵)。
『山水奇観』の「因幡 加路小山」図。右手の奥に明神山、その右側に加路村が描かれています。広重の浮世絵と構図がほぼ同じであることがわかります(伊藤論文より引用)。
そのモチーフとして考えられているのが、1802年に成立した『山水奇観』(鳥取市歴史博物館蔵)という書物です。
この『山水奇観』に描かれた「因幡 加路小山」の図をみると、左手に湖山池、右手に明神山や加路村が描かれており、広重の浮世絵とほぼ同じ構図であることがわかります(右図参照)。
広重はこの『山水奇観』の図をモチーフに『名所図絵』の図を描いたものと考えられます。
さらにいえば『山水奇観』は江戸時代初期に成立したとされる『因幡民談記』中の「加路小山図」をモデルにした可能性が高いことが指摘されています。
『因幡民談記』の絵図には賀露明神・番所・茶屋・東善寺のほか多数の家々が描かれています。それが『山水奇観』さらには『名所図絵』と描き直されるに従って、建物類は省略され「明神山」だけが残ったものと考えられます。
弁財船の五分の一の模型といわれる「御船」。今から180年前に建造されたものです。
賀露神社には2隻の「御船(おふね)」と呼ばれる小型の船があります。
2年に1度のホーエンヤ祭りでは、神輿が台船に乗って川を下る海上渡御(とぎょ)とは別に、小学校低学年の子どもたちがこの「御船」を曳いて賀露の町を歩き、その周りで女の子たちが踊りをおどります。今も昔も変わらない祭りの風景です。
この「御船」は江戸時代に日本海交易で活躍した弁財船の五分の一模型であり、当時の賀露の廻船問屋や船持衆らが寄贈したと言われています。
ホーエンヤ祭で御船を曳いて町内を回る子どもたち。
平成元年の修理の際、この2隻のうち1隻の船底から杉板に墨書された棟札が発見されました。
そこには「船本氏」「藤原棟梁」のあとに、22名の寄付者の名前が並んでおり、世話人として「広島屋」「越前屋」の屋号が、さらに末尾には「天保四年正月四日」の年号が記されてありました。
天保4年は西暦1833年に相当します。このことから、この「御船」は江戸時代の終わり頃に地元の海運関係者らが賀露神社に寄贈したものであることが判明しました。
明治8年(1875)年頃に描かれた「賀露神社絵図」(鳥取県立公文書館所蔵)
平成23年、鳥取市の民家から明治時代に描かれた「神社絵図」54枚が発見され、鳥取県立公文書館に寄贈されました。
これは、明治政府の指示を受けた鳥取県が、明治8年(1875)頃、神社の所在や境内の建造物を調査するために作成したものと考えられています。
この時期の神社絵図は全国的にも珍しく、当時の神社の様子を知る上で貴重な資料であると言われています。
この中には賀露神社の絵図も含まれています。
今回は、この「神社絵図」をもとに、明治初期の賀露神社について紹介してみたいと思います。
右の図が「神社絵図」に描かれた賀露神社です。縦長の彩色図で、右下には「鳥取縣第七大区小四区 因幡国高草郡賀露村鎮座 賀露神社絵図」と書かれています。
構図は独特で、中央には境内や石段が鳥瞰(ちょうかん)的に描かれ、右下には日本海が広がっています。これは、境内地が森に囲まれていること、鎮座地が海岸近くで高台にあり、日本海が一望できる位置にあることを強調したものと思われます。境内地の下には石段や宮司宅、さらには石段下のイトバ(乗船所)も描かれています。
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浜口虎太郎(1889〜1959)
毎年11月初めは「松葉ガニ」の解禁の時期です。
この時期になると、賀露の港はカニを水揚げする漁師や行商人らでおおいに賑わいます。この日から3月までカニ漁の季節に入り、家庭の食卓にも松葉ガニや親ガニ(雌のズワイガニ)が並びます。まさに鳥取の冬の風物詩です。
かつて、カニは1年中捕獲が認められていました。
しかし、その中には産卵期を控えた親ガニも含まれていたため、乱獲が進むにつれて漁獲高は年々減少していきました。
こうした現状を目の当たりにし、全国に先駈けてカニの禁漁期を定め、松葉ガニを守った人物がいました。その人こそ、浜口虎太郎(はまぐち とらたろう)です。
今回は、賀露が生んだ水産界の長老、浜口虎太郎について紹介したいと思います。
大正初期の底曳船。左から4人目が浜口虎太郎。
山陰における近代漁業の先駆者
明治22年12月16日、虎太郎は浜口石太郎と妻ふさの子として生まれました。
幼少期より漁師であった父の手伝いをし、賀露の海とともに育ちました。
若い頃から研究熱心であった虎太郎は、叔父とともに魚問屋を経営する一方、底曳き網漁の改良に取り組みました。そして、北海道や北陸などの先進地を訪ね歩いて新たな技術の導入に努め、大正3〜5年頃に山陰で初めて底引き網漁の機械化に成功し、機船底曳き網漁の先駆者となりました。
そして、遠く沿海州や朝鮮半島北部まで出かけては漁場の開拓に努め、さらに大正の終わり頃に山陰の沖合一帯でホタテ貝(イタヤガイ)が大量発生すると、その乾燥加工の方法を研究して事業化し、関西方面へ販路を開拓しました。
戦前の賀露漁業協同組合
松葉ガニの休漁期をつくる
虎太郎が賀露漁業協同組合長に就任した昭和23年頃、漁法や漁具の進歩にともなって、カニは多量に捕獲されるようになり、年々漁獲高が減っていました。
近い将来カニが枯渇することを心配した虎太郎は、松葉ガニの繁殖時期や生態などを独自に調査・研究し、産卵・繁殖期である2月中旬から10月下旬の間、カニを禁漁にすることを地元の漁師たちに提案しました。
しかし、当時はカニ漁の収入が年間収入の8割を占めていたこともあり、漁師たちの賛同を得ることは簡単ではありませんでした。
前列左が浜口虎太郎
地域振興と県政・市政への貢献
虎太郎の温厚で謙虚な人柄と責任感の強さは多くの人々を惹きつけました。
カニの禁漁期が決まった後も、虎太郎は口ぐせのように「魚は獲ることより、増やすことを考えなければならない」と言って、自分の家に若い漁師たちを集めては、水産業に関する知識を教えていきました。
人望のあつかった虎太郎は、昭和14年(1939)に地元の人々に推されて鳥取市議会議員に初当選します。その後、県議会議員となり、賀露港の修築など地元の発展におおいに貢献しました。昭和25年(1950)には県議会議長を務めています。
賀露の港公園に立つ浜口虎太郎の顕彰碑
こうした業績が認められ、虎太郎は昭和31年(1956)に藍綬褒章を受章しました。 こうして、海洋資源の保護や近代漁業の発展に力を尽くし、地元の振興だけでなく県政・市政にも多大な業績を残した虎太郎は、昭和34年(1959)7月2日、多くの人々に惜しまれながら、70歳で永眠しました。
授章式のために上京した際、鳥取駅で盛大に出迎えようとしていた地元の人々に対し、「恥ずかしゅうて」と帰鳥の日取りを伝えず、こっそり帰ってきたというエピソードが伝わっています。
現在、賀露の港の見える公園には虎太郎の顕彰碑が建てられており、その功績をいつまでもたたえています。
(写真提供:浜口哲太郎氏)
賀露神社拝殿前にある寛政12年(1800)の年号を持つ石灯籠
賀露神社の拝殿前に「御神燈」と大きく刻まれた高さ約4mの1対の石灯籠があります。この灯籠は、寛政12年(1800)に寄進されたもので、石の表面はかなり摩滅していますが、よく見ると側面にたくさんの名前が刻まれています。
このうち、拝殿に向かって右側の灯籠には、近江屋、木屋、見世屋、濱屋、秋里屋、塩屋、油屋、居組屋、雲津屋、網師屋といった屋号を持つ17人の名が刻まれています。「当村廻□衆」とあることから、彼らは賀露を拠点として活動する廻船商人であったと考えられます。江戸時代の賀露には近江屋、秋里屋、居組屋といった地名を屋号に持つ商人や、木屋、見世屋、塩屋、油屋、網師屋といった職種に関する屋号を持つ商人がいたことがわかります。
また、向かって左側の灯籠には、越前屋、竹田屋といった屋号のほか、「尾道石工 勘十郎作」と刻まれています。このことから、この灯籠が尾道(広島県尾道市)の石工の手によって造られたものであることがわかります。
なぜ尾道の石工が造った灯籠が賀露神社に寄進されているのでしょうか?
今回は賀露の廻船商人と尾道とのつながりについて考えてみたいと思います。
石灯籠の基礎部の上から2段目に木屋長助ら17名の廻船商人の名が刻まれています。
賀露の廻船商人と尾道のつながりを示す史料として、広島県立文書館が所蔵する「青木茂氏旧蔵文書」の中に「寛政十三年 客衆上下帖」と書かれた帳簿があります。
これは、寛政13年(1801)に、鰯屋の屋号を持つ尾道の有力問屋・勝島家に出入りした商人たちを記したもので、そこには全国各地の商人たちの出身地と屋号、商人名、船名、積荷などが記されています。
この中に、賀露神社の石燈籠に刻まれた商人たちの名を見ることができます。これを一覧にしたものが下の表です。これをみると、彼らは自分の船を持って活動しており、積荷として米や糀を運んでいたことがわかります。油屋の船にみえる「加徳丸」「加宝丸」という名称は、当時の「加路」の地名に由来するのかも知れません。
寛政12年(1800) 賀露神社の石灯籠にみえる商人 |
寛政13年(1801) 客衆上下帖にみえる船名 |
同史料にみえる 積荷 |
近江屋□□郎 | ||
木屋長助 | 徳宝丸 | |
木屋文助 | 幸徳丸 | 御米 |
木屋次助 | 日来丸 | |
木屋幸助 | ||
見世屋助四郎 | 清宝丸 | |
見世屋政七 | 順徳丸 | |
濱屋佐助 | ||
塩屋甚右衛門 | 福泉丸 | 御米 |
秋里屋兵四郎 | ||
秋里屋権次郎 | 順光丸 | |
油屋清五郎 | 加徳丸 | 糀、米 |
油屋吉左衛門 | 加宝丸 | |
居組屋伝七 | 承久丸 | |
雲津屋伝兵衛 | 住吉丸 | 因州御米 |
油屋善治郎 | ||
網師屋助五郎 |
つまり、賀露の廻船商人たちは、尾道へ因幡米をはじめとする物資を船で運んでおり、尾道では有力問屋勝島家を通じて経済活動を行っていたことがわかります。
当時の尾道は瀬戸内海の交通・流通の要衝であり、国内外から多くの商人たちが集まっていました。賀露の商人たちもそのような各地の商人たちと経済的な交流があったのかも知れません。
このように考えると、石灯籠が賀露神社に寄進された背景が見えてきます。
寛政12年の銘を持つ賀露神社の灯籠は、賀露を拠点としていた船持ちの廻船商人たちが寄進したもので、彼らは日本海から瀬戸内海を通って尾道へ米などの物資を運び、尾道では問屋である勝島家を通じて経済活動を行っていました。灯籠が尾道の石工の作であるのも、そのような賀露の廻船商人と尾道の人々とのつながりが前提にあったものと考えられます。
江戸時代の賀露は、鳥取藩の玄関口として、藩の役所である御番所が置かれ、全国から多くの商船や商人が行き来していました。しかし、そのような商船や商人の活動を示す史料はほとんど残っていません。