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コラム:賀露のあゆみ
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第1回:「賀露」の地名について―「かろ」それとも「かる」?

江戸初期の「寛文大図」(倉田八幡宮蔵)に描かれた賀露村。「軽村」と記されています。

 鳥取市賀露(かろ)町は鳥取平野の中央部を流れる千代川の河口に位置する港町です。古くから日本海と国府・鳥取城を結ぶ海上交通の要地として重要視されてきました。
  
 古来より「賀露」は地元では「かる」と呼ばれていました。史料にも「軽の浦」「かるの湊」などとみえます。千代川も下流の一部は「カル川」と呼んでいたようです。
 また漢字の表記もさまざまで、「かる」は軽・加留・賀留・香留、「かろ」は加路・加露・賀呂など、いろいろな当て字が使われていました。

 では「かろ」と「かる」はどちらが正式な名称なのでしょうか。
 史料を詳しく調べてみると、神社名については「加路大明神」「賀呂社」などいずれも「かろ」と記され「かる」という名称は使われていません。また朝廷や藩の記録など公的な史料にみえる地名はいずれも「かろ」であり、「かる」は寺社縁起や手紙などどちらかといえば私的な史料や地図類に多くみられます。
 このように考えると「かろ」が正式な名称に近く「かる」はいわば通称であった可能性もあります。発音のしやすさから「かろ」が「かる」に訛(なま)って人々の間で一般的に使われていたのかもしれません。
 
 なお「かろ」「かる」の語源についてはさまざまな説があります。主なものをあげてみましょう。
  ・軽部臣(かるべのおみ)(武内宿禰の子孫)がいたところという説
  ・御祭神の吉備真備公を昔「軽大臣」と呼んでいたという説
  ・アイヌ語の「カ(上の)」「ル(路)」、すなわち「上の路」に由来するという説
  ・海浜地帯であるから「karl(カール)」すなわち「曲がる・巻く」に由来するという説
  ・崖の上に神社があり、「崖=カリ」に由来するという説

 このようにかつての「賀露」は呼び名も漢字もさまざまでした。現在の「賀露」に統一されるのは明治時代はじめのことです。
第2回:歴史上最初に登場する賀露の住人とは?

賀露の浜で安大夫(左端)から話を聞く橘行平(中央)一行。(京都・因幡堂蔵「因幡堂縁起絵巻」より)

 「因幡堂薬師縁起(いなばどうやくしえんぎ)」(1425年成立、東寺観智院所蔵)には次のような話が載っています。

 天徳3年(959)、京都の貴族橘行平(たちばなのゆきひら)は、天皇の使者として因幡一宮(宇倍神社)へお参りにやってきました。
 無事参拝を済ませた行平ですが、その後病に倒れてしまいます。そのとき夢の中に1人の僧があらわれ「賀露の津に浮かぶ木を引き上げよ」と行平に告げます。  
 
 翌朝、行平ら一行はお告げとおり賀露の津にやってきました。そこで行平は「安大夫」という地元の90歳の漁師から、海底に40年間光り続けるものがあるという話を聞きます。

 地引き網を使って皆で引き上げたところ、それは1体の薬師如来像(やくしにょらいぞう)でした。行平は像を祀るため近くにお堂を立て、その後京都へ帰りました。しかし、その数年後、薬師如来像は京都の行平のもとへ飛び去ります。そのため行平は因幡堂を建立して薬師如来像を祀ったという話です。

 ここに登場する「安大夫」という古老が歴史上最初に名前の登場する賀露の住人のようです。それにしても90歳とは長生きですね。

 ちなみに、安大夫はこのとき賀露の様子について次のような話をしています。
「昔、賀露は数百軒の家が建ち並び、とても裕福な村でした。しかし、人々は日々高潮や高波に悩まされ、やがて家を山の上の方に移しました。今はあちこちに住んでいます。」
 賀露の丘の上の集落はこのようにして作られていったのかも知れません。

 ・参考文献:特別展図録『はじまりの物語』(鳥取県立博物館編)
 
第3回:鳥取城下にも「賀露神社」があった!?
 江戸時代、鳥取城下にも「賀露神社」があったことをご存じでしょうか?

 宝暦7年(1757)、藩士の子弟を教育するため、鳥取城下に藩校「尚徳館(しょうとくかん)」が建てられました。
 このとき、館内に孔子廟(こうしびょう)とともに、宇倍神社と賀露神社の両社の社殿が建立されました。2月1日の尚徳館の開校初日には、賀露神社神主の岡村左門が開筵式(かいえんしき)に参列しています。

 なぜ、尚徳館に宇倍神社と賀露神社の社殿が建てられたのでしょうか?
 その理由について、『鳥取藩史』には「武内宿禰(たけのうちのすくね)を祀る宇倍神社は因幡一宮であるため、賀露神社は学問の神様である吉備真備公をお祀りしているため」と記されています。
 賀露神社の御祭神の吉備真備公は尚徳館においても学問の神様として祀られていたのです。

 しかし、嘉永6年(1853)、鳥取藩は吉備真備公に代えて武甕槌命(たけみかづちのみこと)をお祀りするよう命じました。
 
 その理由として『鳥取藩史』には次のように書かれています。
 当時の藩主池田慶徳は水戸(茨城県)の弘道館(こうどうかん)を藩校の模範としていました。このとき弘道館では孔子廟とともに鹿島神宮の祭神である武甕槌命を武神として学館内にお祀りしていました。文武併進をモットーとする慶徳は、これにならって武神を祀る必要があると考え、吉備真備公に代えて武甕槌命をお祀りするよう命じたということです。当時の儒学者たちのアドバイスもあったようです。
 

現在の東井神社(鳥取市用瀬町)の御本殿。かつて尚徳館にあった社殿を移したものです。

 その結果、安政5年(1858)12月に京都から武甕槌命が賀露神社へ勧請されて御祭神に加えられ、翌年5月に賀露神社から尚徳館へ武甕槌命が勧請されました。以後、毎年、春と秋には盛大なお祭りが行われたということです。

 以来、賀露神社においても吉備真備公と武甕槌命を「文武併進」の神様としてお祀りしており、現在も多くの学生たちが参拝に訪れています。 

 その後、尚徳館は明治3年(1870)に閉校となりますが、社殿の1つは鳥取市用瀬町に鎮座する東井(とうい)神社へ移されました。現在も同神社の御本殿として大切に守られています。 
 また、尚徳館の跡地には現在の鳥取西高等学校の前身にあたる第十五番変則中学校が創設されたほか、その後も師範学校や付属小中学校、鳥取女学校などが設立されました。
 文武併進の理念は現在も県内の各学校に受け継がれています。

 ・参考文献:『鳥取藩史』第3巻

第4回:賀露神社の「大太鼓」について

平成9年7月に出雲ドームで開催された「アジア海響」で再会を果たした3つの兄弟太鼓。1本の木からこのような3つの大太鼓が作られた例は他にはみられないと言われています。

 賀露神社には口径120cm、胴回り450cm、胴長150cmの大太鼓があります。
 これは、名和神社(鳥取県大山町)、美保神社(島根県美保関町)の大太鼓とともに、1本の大ケヤキから切り出された三大太鼓の1つで、山陰で3番目に大きな太鼓と言われています。

 なぜこのような大きな太鼓が賀露神社にあるのでしょうか。

 安政3年(1856)、八頭郡八頭町(旧八東町)妻鹿野(めがの)滝川地区の山林から樹齢千年を越える1本の大ケヤキが切り出され、ここから3つの太鼓が作られました。
 ケヤキは乾燥させるため、2年間寝かされた後、同5年に八東町南村の沢田孫太夫・直十郎親子が願主となり、胴は日田村と高野村の大工が制作し、革張りは大坂と播磨の職人が行って完成させ、鳥取城に献上されました。

 3つの大太鼓は藩士に登城の時刻を知らせる御用太鼓として打ち鳴らされ、当時、その音は30km先まで響き渡ったと言われています。その後、明治6年(1873)に払い下げられ、名和神社・美保神社・賀露神社に奉納されました。
 ちなみに一番大きな名和神社の大太鼓は口径140cm、2番目の美保神社の太鼓は口径130cmあります。

 平成6年(1994)9月には美保神社で120年ぶりに兄弟3太鼓が再会し、世界的太鼓奏者の林英哲(はやし えいてつ)氏によって演奏がなされました。その後、同8年には八東町の総合運動公園で、また翌9年には出雲ドームでも3大太鼓の競演が行われています。

 賀露神社の大太鼓は大正14年に当時の賀露村長であった宮崎才吉氏によって皮が張り替えられて現在に至っています。神社では氏子繁栄を願って毎年元旦の初神楽でこの大太鼓を打ち鳴らしており、賀露の氏子中の宝として大切に保存されています。
第5回:賀露神社の宮銭について

賀露神社下にあった御番所。千代川に出入りする船をチェックしたり運上銀を徴収していました。

 「敵に塩を送る」という言葉があるように、塩は人間の生活にとって大切なものでした。

 因幡国では古くから大谷・陸上(くがみ)・寺山・内野(内海?)・伏野・姉泊・園といった沿岸部で塩の生産が行われていました。国内で塩の生産量が減ってからは、下松・三田尻(現在の山口県)からも塩が因幡へ運ばれるようになり、それらは「下松塩」「三田尻塩」などと呼ばれました。

 江戸時代、これらの塩は鳥取城下に運ばれましたが、千代川に入る際、賀露の河口に置かれた藩の「御番所」で「運上銀」(関税のようなもの)が徴収されていました。

 賀露神社が所蔵する史料によれば、18世紀中頃から、塩の運上銀の一部が「宮銭」として賀露神社へ奉納されるようになりました。安永5年(1776)の記録によれば、宝暦3年(1753)2月以降、塩10俵につき3文を賀露明神へ宮銭として奉納したとあります。この宮銭は塩1俵につき約3毛となるので「三毛銭」と呼ばれていました。

 宮銭の対象となったのは塩だけではありませんでした。「賀露干鰯三厘銭取立帳」(賀露神社文書)によれば、天保2年(1831)から弘化3年(1846)にかけて、港で取り引きされる干鰯(ほしか)の総量に対して3厘の宮銭が神社に奉納されていたとあります。これは塩の「三毛銭」に対して「三厘銭」と呼ばれました。
 
 これらの宮銭は主に社殿の修繕費として用いられていました。藩から奉納される「三毛銭」「三厘銭」といった宮銭が江戸時代の神社経済と深く結びついていたことがわかります。
第6回:明治時代の北海道移住と賀露(その1)

賀露大橋の脇に立つ「釧路開拓移民団出港の地」記念碑。明治時代に多くの移住者が賀露港から北海道へ渡りました。

 賀露大橋のたもとに「釧路開拓移民団出港の地」と記された記念碑が立っています。
 
 明治17・18年、政府の移住政策のもと、多くの士族が鳥取県から北海道釧路の地へ移住しました。
 当時の記録によれば、2年間で100戸の士族と5戸の師範農家が賀露から釧路へ渡ったとあります。
 彼らは、東善寺に集合し、三菱会社が用意した船に乗って賀露港を出港し、敦賀・函館を経由して4日間かけて釧路へ入港しました。
 
 希望を胸に北海道に渡った移住者たちですが、彼らを待ち受けていたのは、北の大地の想像を絶する寒さでした。住居はバラック作りで畳は1戸に6畳しかなく、壁や屋根は隙間だらけで、冬には雪が吹き込み、飯や醤油なども凍ったと言われています。

岩見沢にある東(ひがし)神社。鳥取県出身者が建立した鳥取神社と山口県出身者が建立した山地神社が明治39年に合祀されたものです。

 それでも彼らは刀を鍬に持ち替え、未開の荒野を歯を食いしばって開墾し、現在の釧路市のもとになる「鳥取村」をつくりました。
 今でも釧路市には、鳥取神社、鳥取小学校、鳥取大通りなど「鳥取」の地名が多く残っています。

 鳥取からの士族の移住先は釧路だけではありませんでした。
 明治18年6月、釧路と同じ100戸の士族が、賀露港から北海道の札幌市近郊にある岩見沢へ移住しています。
 彼らは品川丸という船に乗って賀露港を出港し、小樽・札幌を経由して、岩見沢へ入植しました。 
 釧路と同様、厳しい寒さに耐えながら、2年かけて未開の原野を切り開いていったのです。

 このときの岩見沢移住の様子を記した「開拓踊りの歌」(上村ウタ子作)という詩があります。
以下にその一部を紹介しておきましょう。

 妾は因州鳥取藩    三十二万五千石の   お殿様の家臣にて   お城勤めの士族なり
 頃は明治の十八年   若葉の薫る六月に   百五戸そろって故郷を 後に蝦夷地へ移住する
 その時妾が二十一   加露の港に集まりて  品川丸に乗船し    親戚知友に見送られ
 熊の餌食にならぬよう 真心込めて注意され  交す言葉も血の涙   汽船は午後の九時に出て
 宵闇せまる港町    さらば〃〃の声哀し  明神様に手を合せ   無事安泰を伏し拝む
  (以下略)
  
 このように、明治時代、多くの鳥取県人が賀露港から北海道へ移住しました。明治時代の賀露は鳥取と北海道を結ぶ窓口でもあったのです。
第7回:明治時代の北海道移住と賀露(その2)

明治45年の利尻島長浜地区のニシン粕作りの様子。鳥取県からの移住者である秋里出身の伊佐田長蔵の経営する漁場でした。

 明治時代、北海道へ移住したのは士族だけではありませんでした。
 明治20年以降、鳥取県から多くの農民や漁民が北海道各地へ移住しました。彼らは「因幡衆」「鳥取団体」と呼ばれ、農業や漁業に従事しました。
 
 この時代、賀露からも多くの人々が北海道に渡りました。特に明治20年代はオホーツク海でニシン漁が最盛期を迎えており、全国から多くの人々が漁場を求めて利尻島や稚内・宗谷地方へ移住しました。

 北海道利尻島の役場に残されている名簿には、明治〜大正時代に利尻島や宗谷地方に渡った賀露出身者が記されています。
 以下にその名前をあげてみましょう。

利尻山神社に立つ石灯籠。賀露出身者の名が刻まれています。

[利尻島]
 小林宏義、浜本芳太郎、中村与太郎、島谷庄太郎、浜口千代造、
 一川歌吉、米村長太郎
[稚内・宗谷]
 越川重太郎、三谷市太郎、三谷米蔵、山本サヨ、中井啓一
 
 この中には、島谷さんや越川さんのように、現在も毎年梨を送ったり年賀状をやりとりして交流している家もあります。島谷さんのご子孫で利尻富士町にお住まいの島谷(しまや)一昭さんの話によれば「鳥取からの移住者の家では今でも正月の雑煮は丸餅で小豆ぜんざい」だということです。

 また、利尻島北部の利尻富士町鴛泊(おしどまり)にある利尻山(りしりざん)神社の境内には、賀露出身者が明治30年に神社に奉納した石灯籠が立っています。
 そこには寄進者として以下の名が刻まれています。

賀露神社の裏鳥居脇にある石灯籠。北海道へ渡った成功者が奉納したものです。

  寄進 明治三十年五月吉日
  鳥取県因幡国気高郡加路村
    竹田与三郎・沢山文四郎・小林長太郎
    沢山久太郎・山辺久造・岸本常右衛門

 一方、北海道の移住者が鳥取に寄進した例もあります。鳥取市晩稲の波津(はづ)神社にある鳥居や賀露神社の裏鳥居脇の石灯籠には北海道移住者の名が刻まれています。
 これらは北海道に渡った移住者たちが成功をおさめ、故郷を思って産土(うぶすな)神社に寄進したものと思われます。

 鳥取から1000km以上離れた北海道ですが、今も各地に賀露出身者が伝えたさまざまな歴史や文化が残されています。

 そこには移住者たちの故郷に対する思いや成功者としての誇りが感じられます。

  

第8回:『日本三代実録』と賀露神社

昭和15年の賀露神社の随神門(ずいじんもん)および石段。1200年以上前からこの地に鎮座していると言われています。

 賀露神社が登場する最古の記録は平安時代に成立した『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』です。
 『日本三代実録』は平安時代の清和(せいわ)、陽成(ようぜい)、光孝(こうこう)天皇の三代の記録を国家がまとめた正式な歴史書です。菅原道真や藤原時平らによって編纂され、延喜元年(901)年に成立しました。
 古代の歴史書の中でも、特に記述が正確であるといわれ、869年に東北地方を襲った貞観地震と大津波に関する記述もこの中に出てきます。

 今回はこの『日本三代実録』にみえる賀露神社について取り上げてみましょう。

 『日本三代実録』にみえる賀露神社に関する記述は以下のとおりです。
・貞観3年(861)10月16日(巻5)
  「因幡国の正六位上酒賀神・賀露神に並べて従五位下を授(さず)く」
・貞観16年(874)5月11日(巻25)
  「因幡国の従五位下賀露神・須賀神・鷲峯神・服織神・美嘆神に並べて従五位上を授く」
・元慶元年(877)6月28日(巻31)
  「因幡国の従五位上賀露神に正五位下を授く」
・同年12月14日(巻32)
  「因幡国の正五位下賀露神に従四位下を授く」
・元慶2年(878)11月13日(巻34)
  「因幡国の従三位宇倍神に正三位を、従四位下賀露神に従四位上を授く」

 これによると、861年から878年のわずか18年間に、「正(しょう)六位上」から「従四位(じゅしい)上」まで神階を授かっていることがわかります。
 この中には酒賀神社(国府町)、美歎神社(同)、宇倍神社(同)、鷲峰神社(鹿野町)、服部神社(福部町)といった由緒ある神社の名もみえますが、これほど短期間に朝廷から次々と位階を与えられた例は他にはないと言われています。
 その理由は不明ですが、一説には、この時期に新羅(しらぎ)との緊張が高まり、当時の朝廷が日本海に面した地域の神社を重視して位階を与えたためと考えられています。

 平安時代の賀露神社が朝廷から重要な神社の1つと考えられていたことがわかります。
第9回:戦国時代の合戦と賀露

現在の賀露港。鳥取城下と日本海を結ぶ千代川の河口に位置する賀露は16世紀の因幡国内でも要衝の地でした。

 今から約500年前―世の中は群雄割拠の戦国時代を迎えていました。
 
 この時代の因幡国は、尼子・毛利・織田といった周辺の大名たちの対立・抗争の狭間に置かれており、数多くの戦いが繰り広げられました。
 数々の戦いの舞台となった鳥取城は、城下を流れる袋川や千代川を経由して日本海へ通じていたため千代川の河口に位置する賀露は因幡地方の中でも特に重要な地域の1つに位置づけられていました。
 そのため、戦国時代の史料の中にはしばしば賀露が登場します。
 今回は戦国時代の賀露をめぐる動きをいくつか取り上げてみたいと思います。

(1) 元亀2年(1571) 毛利と尼子の戦い
 『萩藩閥閲録(はぎはんばつえつろく)』によれば、元亀2年(1571)4月下旬、尼子の軍勢を乗せた船が大風に流され「かるの浦」に吹き寄せられたとあります。当時、山陰では毛利氏と尼子氏が激しい戦いを繰り広げていました。この戦いは毛利軍が優勢であったため、尼子軍は船で援軍を送っていたか、海路で但馬方面へ退却する途中だったのではないかと推測されます。
 

秀吉が2度攻めた鳥取城。吉川経家は「日本を代表する名山である」と絶賛しました。

(2) 天正8年(1580) 秀吉の第1回鳥取城攻め
  また天正8年(1580)5月には羽柴秀吉(はしばひでよし・後の豊臣秀吉)が鳥取城を攻撃します。このとき秀吉は「加路辺」まで軍勢を送りこみ、鳥取城を広範囲に包囲しました(「山田家古文書」)。

 このときの鳥取城攻めは秀吉が勝利をおさめますが、その後、鳥取城では秀吉に降伏した城主山名豊国が追放され、代わって石見国福光城(島根県温泉津町)の吉川経家が城番に命じられます。
 経家は、天正9年(1581)3月に海路で因幡へやってきました。そして18日の朝に「加路」に到着し、そこで毛利方の武将たちの出迎えを受けて、午前10時頃に鳥取城に入っています(「吉川家文書」)。

(3) 天正9年(1581) 秀吉の第2回鳥取城攻め
 同年7月、秀吉の2度目の鳥取城攻めが開始されます。このとき秀吉は、経家の立てこもる鳥取城を数万の軍勢で包囲し、補給路を遮断して城兵を飢えで苦しめる「兵糧攻め」と呼ばれる持久戦を行いました。
 当時、国内の陸路をすべて押さえられていた毛利軍は、最後の手段として海から千代川を通って兵糧を城へ運び入れようとしますが、「かろ河口」に停泊していた秀吉方の松井水軍により阻止され、海からの救援も絶望的となってしまします(「山縣家文書」「細川家文書」)。
 その結果、10月25日に経家は切腹し、鳥取城は落城しました。
 
 このように、戦国時代の賀露は当時の史料の中にしばしば登場します。
 参考までに、江戸時代の藩医である小泉友賢(こいずみゆうけん)が寛文12年(1672)に記した「賀露神社縁起」(賀露神社蔵)によれば、「天正年間の兵乱の際に賀露の地は兵火に包まれ、人民は離散し、神社も破滅に及んだ」とあります。

 賀露の地が直接戦火に見舞われたという当時の記録は残っていませんが、賀露神社は1300年という長い歴史であるにも関わらず中世までの古文書はほとんど残っていません。ひょっとしたら、小泉友賢が指摘するように、戦国時代、賀露の地においても激しい戦いがあったのかもしれません。
 
第10回:賀露神社の虎(トラ)の狛犬について

賀露神社の「虎」の形をした狛犬(狛虎?)。全国にも例がない珍しい狛犬です。

 神社にお参りすると、入り口や社殿の両脇で狛犬(こまいぬ)が我々を迎えてくれます。
 狛犬は、神様をお守りし、参拝者の邪気を祓う神聖なる石像です。現在は石像が主流ですが、古い狛犬の中には木製のものもあります。

 狛犬はふつう2匹が1対になっていて、神様から見て左側が口を開けた「阿形(あぎょう)」、右側が口を閉じた「吽行(うんぎょう)」となっています。阿形の中には玉を咥えているものもあります。両者が一体となって「あうん」の呼吸で邪気を排除し神様をお守りしているのです。
 また姿勢もさまざまで、前足を揃えて座っている「座型」や、頭を低くして後足を上げている「構え型」など、地域や神社によってさまざまな形があります。

 今は一般的に2体をまとめて「狛犬」と呼んでいますが、もともとは阿形が「獅子」を、吽行が「狛犬」を表していました。また神社によってはさまざまな動物の狛犬があります。例えば埼玉県の調(つきのみや)神社の狛犬は「兎」であり、同県の三峰神社には「狼」の狛犬があります。

 ところで、賀露神社にも珍しい狛犬があります。
 随神門をくぐって参道を歩くと、中程の両側にひときわ白く輝く狛犬が我々を迎えてくれます。このあたりの狛犬は加工しやすい来待石(きまちいし)が多く使われますが、この狛犬は凝灰岩(ぎょうかいがん)でできています。

 この狛犬は全国的にも珍しい「虎」の姿をしています。昨年は干支が「寅」だったこともあり、阪神ファンのみならず、「虎の威」にあやかろうと多くの方がお参りに来られました。

賀露神社が所蔵する古写真。手水鉢の側面に「在朝鮮統営 秋本岩蔵」とあります。写真の2人は秋本岩蔵夫妻と言われています。

 では、なぜ賀露神社に虎の姿をした狛犬があるのでしょうか。
 これを探る手がかりとして、台座には次のような文字が刻まれています。

 「在朝鮮統営 秋本岩蔵」
 「大正十一年 月」「鳥取 前田石工作所」
 
 これによれば、この狛犬は秋本岩蔵という人が大正11年(1922)に賀露神社に寄進したものであることがわかります。秋本岩蔵氏はもともと賀露の出身で賀露神社の氏子でした。「統営」というのは朝鮮半島の南端にある「統営(トンヨン)」という港町のことで、「在朝鮮統営」とあることから、この時期に秋本氏は統営に在住していたと思われます。
 
 古来より朝鮮半島では虎は神聖な動物であると考えられてきました。半島の各地には虎を題材とした民話や美術工芸品が数多く残されています。
 これらのことを考え合わせると、この狛犬は、朝鮮半島の統営(トンヨン)に住んでいた秋本岩蔵氏が、朝鮮の神聖な動物である虎を形取った狛犬の制作を鳥取の石工に依頼し、大正11年に故郷の産土神である賀露神社へ奉納した可能性が高いと考えられます。

 参考までに、賀露神社の石段上にある「手水鉢」も秋本岩蔵氏の寄進によるもので、これも側面に「在朝鮮統営 秋本岩蔵」と刻まれています。これは昭和15年(1940)10月に皇紀2600年を記念して奉納されたものです。

 このように賀露神社の虎の狛犬は朝鮮半島に渡った移住者によって大正の終わり頃に神社に奉納されたものであったと考えられます。
 ちなみに、虎の狛犬の台座には「龍」の図が描かれています。朝鮮半島では「龍虎図」は吉祥を意味するおめでたい図像とされています。
 賀露神社へお参りの際は、この「龍虎図」をどうぞゆっくりご鑑賞下さい。
第11回:江戸時代の御番所(御船番所)について

かつて「御番所」が置かれていた場所。江戸時代の賀露は鳥取城下の外港として重視されていました。

 賀露神社の石段を下りて左に曲がると「神社前」のバス停近くに広い場所があります。
 江戸時代、ここには「御番所(ごばんしょ)」と呼ばれる藩の役所が置かれていました。「御番所」は「御船番所(おふなばんしょ)」ともいい、千代川を通って鳥取城へ向かう船の積み荷などを取り調べるところです。

 江戸時代、鳥取藩には沿岸警備や港の管理を行うために「御船手(おふなて)」と呼ばれる組織がありました。その御船手の出張所として、賀露・浦富・泊・赤崎・深浦・米子・浜ノ目(境)の7カ所に「御番所」が置かれました。
 特に千代川河口に位置する賀露は鳥取城下の外港として重視されていたようです。

1 賀露の御番所の様子

 これは個人が所蔵する江戸時代の御番所の絵図です。これをもとに、当時の御番所の様子についてみてみましょう。
 御番所は賀露神社の鎮座する丘陵のふもとに位置していました。丘陵の中腹には宮司宅が立っています。御番所は石垣の上に建ち、周りには柵がめぐらされていました。建物は政務をする役所と役人たちの住居に分かれていたようです。
 当時は御番所の北側は海に面していました。現在は埋め立てられて道路になっています。正面に石段(イトバ)がありますが、ここで荷物などを下ろしたと思われます。
 また絵の中央左の入り口付近には大きな高札(こうさつ:立て札)が立っていました。ここには「御番所の前で魚を捕ってはいけない」などの決まりごとが記されていました。
 よくみると、絵の右下あたりの川の中にも高札が立っています。このことから、当時このあたりが浅かったことがわかります。別の絵図には「御番所前通り、深さ五尺計」と書かれています。このことから御番所の前の水深は5尺=約1.6m程度であったものと思われます。
 

2 御番所の仕事 
 では御番所はどのような仕事をしていたのでしょうか。次にいくつか紹介してみましょう。

(1)沿岸の警備
 島国である日本は四方を海に囲まれているため、異国船に対する沿岸警備が重要な任務とされました。また、1640年代から幕府は鎖国政策を行いオランダ・清(中国)以外の国との通商を禁じるとともに窓口を長崎に限定しました。しかし実際は各地でこっそりと「密貿易」をする者たちがいたようです。その取り締まりを行うのも御番所の重要な仕事でした。

(2)藩主の御船召儀式(おふなめしのぎしき)
 御船召儀式とは漁師たちがその年初めて捕った魚を藩主に献上する新年の儀式のことです。毎年正月13日頃、藩主は御座船に乗って千代川を下り賀露の地で漁師たちから魚の献上を受けました。この儀式を執り行うのも御番所の仕事の1つでした。

(3)船改め
 鳥取藩のすべての廻船・漁船・川船は藩の役人に届け出を行い、「焼印」を受けなければなりませんでした。「焼印」を受けたものは一艘ごとに定められた額の金銭を藩に支払う必要がありました。船改めとは、藩内すべての船に「焼印」が押されているかどうかをを取りしらべるもので、毎年9月頃に行われました。

(4)荷改め
 御番所では港に出入りする全ての商品に対して取り調べが行われ、これは「荷改め」と呼ばれました。また港に出入りする船や商品には税が課せられていました。これらの取り調べや税の取り立ても御番所の仕事でした。

 このように、賀露の御番所はさまざまな役割を担っていました。
 江戸時代の賀露が鳥取藩にとって沿岸警備や流通統制を行う上で重要な地であったことがわかります。

第12回:歌川広重が描いた賀露の風景

歌川広重『六十余州名所図絵』の「因幡 加路小山」図。因幡国内の景観を描いた絵はこの1点しかありません。左手に湖山池、右手に賀露が描かれています(鳥取市歴史博物館蔵)。

江戸時代の有名な浮世絵師の1人に歌川(安藤)広重(うたがわひろしげ)があります。
 彼は『富嶽(ふがく)三十六景』で有名な葛飾北斎(かつしかほくさい)とともに、江戸時代の風景画に新境地を開いた画家として知られ、代表作には『東海道五十三次』があります。

 その歌川広重の浮世絵の中に、賀露の風景を描いた作品があるのをご存じでしょうか?
 広重の晩年の作である『六十余州名所図絵』(1853年成立)には、日本全国68の国々の名所が描かれています。
 この中に
「因幡 加路小山」と題された1枚の絵がおさめられています(右図参照)。
 因幡国を描いたものはこの1枚しかありません。その意味では江戸時代の因幡国を代表する景観として広重が選んだ随一の名所と考えてもよいかもしれません。
 
 そこに描かれた風景を見てみましょう。右の図によれば、全体が南側の高いところから鳥瞰(ちょうかん)的に眺めた構図になっており、右手に賀露、左手に湖山池を配置し、湖山池の手前には青島(あおしま)が浮かんでいます。右手の丘陵の奥にみえる一番高い山が賀露神社の鎮座する「明神山」です。 

 しかし、このような景観がみられる高いところは周辺地域のどこにもなく、どこからみた景色なのかよくわかりません。
 そのため、近年の研究によれば、この「因幡 加路・小山」の絵は、広重が実際にこの風景を見て描いたのではなく、何かをモチーフにして描いたイメージ図であることが指摘されています。
 

『山水奇観』の「因幡 加路小山」図。右手の奥に明神山、その右側に加路村が描かれています。広重の浮世絵と構図がほぼ同じであることがわかります(伊藤論文より引用)。

 そのモチーフとして考えられているのが、1802年に成立した『山水奇観』(鳥取市歴史博物館蔵)という書物です。
 この『山水奇観』に描かれた「因幡 加路小山」の図をみると、左手に湖山池、右手に明神山や加路村が描かれており、広重の浮世絵とほぼ同じ構図であることがわかります(右図参照)。
 広重はこの『山水奇観』の図をモチーフに『名所図絵』の図を描いたものと考えられます。

 さらにいえば『山水奇観』は江戸時代初期に
成立したとされる『因幡民談記』中の「加路小山図」をモデルにした可能性が高いことが指摘されています。 
 『因幡民談記』の絵図には賀露明神・番所・茶屋・東善寺のほか多数の家々が描かれています。それが『山水奇観』さらには『名所図絵』と描き直されるに従って、建物類は省略され「明神山」だけが残ったものと考えられます。

 このように、歌川広重が描いた「因幡 加路小山」図は、50年前の『山水奇観』の絵をモチーフとしたものであったと考えられます。
 しかし、イメージ図であるにせよ、日本を代表する浮世絵師である歌川広重が、因幡国随一の名所としてこの地を選んだことは重要であり、このことは、賀露周辺が江戸時代の因幡国を代表する風光明媚(ふうこうめいび)な場所であったことを物語っています。

(参考文献)伊藤康晴氏「名所図絵の図像変遷について−描かれた因幡国加路・小山−」
                        (『鳥取地域史研究』第3号 2001年)
第13回:賀露神社の御船(おふね)について

弁財船の五分の一の模型といわれる「御船」。今から180年前に建造されたものです。

 賀露神社には2隻の「御船(おふね)」と呼ばれる小型の船があります。
 
 2年に1度のホーエンヤ祭りでは、神輿が台船に乗って川を下る海上渡御(とぎょ)とは別に、小学校低学年の子どもたちがこの「御船」を曳いて賀露の町を歩き、その周りで女の子たちが踊りをおどります。今も昔も変わらない祭りの風景です。

 この「御船」は江戸時代に日本海交易で活躍した弁財船の五分の一模型であり、当時の賀露の廻船問屋や船持衆らが寄贈したと言われています。

ホーエンヤ祭で御船を曳いて町内を回る子どもたち。

 平成元年の修理の際、この2隻のうち1隻の船底から杉板に墨書された棟札が発見されました。

 そこには「船本氏」「藤原棟梁」のあとに、22名の寄付者の名前が並んでおり、世話人として「広島屋」「越前屋」の屋号が、さらに末尾には「天保四年正月四日」の年号が記されてありました。

 天保4年は西暦1833年に相当します。このことから、この「御船」は江戸時代の終わり頃に地元の海運関係者らが賀露神社に寄贈したものであることが判明しました。

 また、棟札の記述によれば、この御船を建造するのに集まった寄付金は計3005目(匁)、すなわち約300両であったことがわかります。
 このときの1両が現在の何円に相当するかは、江戸時代を通して通貨の価値が大きく変動したので、一概には言えませんが、仮に5〜10万円であったとすると、単純に考えて1500〜3000万円(1人あたり約70〜140万円)に相当することになります。
 当時の賀露の繁栄ぶりを窺い知ることができます。
 さらに、この御船を修理した船大工によれば、「船は小型であるが、本物と同じ製法や技術を用いて製造されており、非常に精巧に造られている」とのことです。

 今から約180年前に建造され、賀露神社に寄贈された2隻の「御船」。
 江戸時代の賀露の繁栄ぶりと先人たちの思いや技術を現在に伝えています。
第14回:「神社絵図」にみる明治時代の賀露神社

明治8年(1875)年頃に描かれた「賀露神社絵図」(鳥取県立公文書館所蔵)

 平成23年、鳥取市の民家から明治時代に描かれた「神社絵図」54枚が発見され、鳥取県立公文書館に寄贈されました。

 これは、明治政府の指示を受けた鳥取県が、明治8年(1875)頃、神社の所在や境内の建造物を調査するために作成したものと考えられています。
 この時期の神社絵図は全国的にも珍しく、当時の神社の様子を知る上で貴重な資料であると言われています。

 この中には賀露神社の絵図も含まれています。
 今回は、この「神社絵図」をもとに、明治初期の賀露神社について紹介してみたいと思います。

 右の図が「神社絵図」に描かれた賀露神社です。縦長の彩色図で、右下には「鳥取縣第七大区小四区 因幡国高草郡賀露村鎮座 賀露神社絵図」と書かれています。
 構図は独特で、中央には境内や石段が鳥瞰(ちょうかん)的に描かれ、右下には日本海が広がっています。これは、境内地が森に囲まれていること、鎮座地が海岸近くで高台にあり、日本海が一望できる位置にあることを強調したものと思われます。境内地の下には石段や宮司宅、さらには石段下のイトバ(乗船所)も描かれています。

(↓↓写真をクリックすると拡大します↓↓)

社殿・神楽殿・末社

石畳や随神門

宮司宅や御番所

 まず境内地からみてみましょう。
 これによると、森に囲まれた丘陵上の平地部分に社殿が建っており、境内地の周りは柵のようなもので仕切られています。
 石段上には随神門(ずいじんもん)が建っており、これは瓦葺きのようにみえます。随神門から拝殿までは石畳が続いており、その両側には一対の狛犬や灯籠が並んでいます。

 社殿は本殿と拝殿が通殿でつながっており、これは柿(こけら)葺きのようにもみえます。柿葺きというのは、木材の薄板を重ね合わせるように並べて葺いたものです。明和6年(1769)の「高草郡神社御改帳」(以下「改帳」と略します)によれば、随神門は瓦葺き、本殿・拝殿はいずれも柿葺と記されており、明治初期まで柿葺が続いていたのかも知れません。

 社殿の右側にはもう1つ瓦葺きの建物が見えます。現在の境内地には見られない建物で、これは神楽殿(かぐらでん)であると考えられます。
 当時の多くの神社には本殿・拝殿のほかに神楽殿がありました。ここで奏楽や舞を奉納しました。「改帳」にも「神楽殿 三間四方 柿葺」とあります。この絵図をみると明治初期の神楽殿は瓦葺になっており、拝殿と通路でつながっていたことがわかります。

 このほか、境内地にはいくつかの末社がみえます。「改帳」によれば、明和6年の段階で水戸大明神、恵美須大明神、稲荷、天神といった末社があったことがわかります。右側が恵美須大明神(現船玉神社)、左側の松の木の下にあるのが水戸大明神(現水戸神社)であると思われます。

 次に石段から下をみてみましょう。
 現在、石段は130段ありますが、それは明治初期もほぼ同じであったと考えられます。石段の中腹にある建物は宮司宅です。その下には石鳥居がみえます。
 石段の下には制札場のようなものがみえますが、これは現在も残っています。その先はイトバになっており、船が並んでいます。
 
 その海側には柵のようなものがあり、その先に瓦葺きの建物がみえます。これは江戸時代の御番所の建物であると考えられます。明治時代のはじめまで御番所の建物が残っていたことがわかります。

 このように、「神社絵図」には、今から約140年前の建物や風景が描かれています。写真では残りにくい当時の景観や面影を今に伝えてくれる貴重な一枚です。
第15回:賀露が生んだ水産界の長老―浜口虎太郎について―

浜口虎太郎(1889〜1959)

 
  毎年11月初めは「松葉ガニ」の解禁の時期です。
 この時期になると、賀露の港はカニを水揚げする漁師や行商人らでおおいに賑わいます。この日から3月までカニ漁の季節に入り、家庭の食卓にも松葉ガニや親ガニ(雌のズワイガニ)が並びます。まさに鳥取の冬の風物詩です。

 かつて、カニは1年中捕獲が認められていました。
 しかし、その中には産卵期を控えた親ガニも含まれていたため、乱獲が進むにつれて漁獲高は年々減少していきました。

 こうした現状を目の当たりにし、全国に先駈けてカニの禁漁期を定め、松葉ガニを守った人物がいました。その人こそ、浜口虎太郎(はまぐち とらたろう)です。
 今回は、賀露が生んだ水産界の長老、浜口虎太郎について紹介したいと思います。

大正初期の底曳船。左から4人目が浜口虎太郎。

山陰における近代漁業の先駆者
 
明治22年12月16日、虎太郎は浜口石太郎と妻ふさの子として生まれました。
 幼少期より漁師であった父の手伝いをし、賀露の海とともに育ちました。

若い頃から研究熱心であった虎太郎は、叔父とともに魚問屋を経営する一方、底曳き網漁の改良に取り組みました。そして、北海道や北陸などの先進地を訪ね歩いて新たな技術の導入に努め、大正3〜5年頃に山陰で初めて底引き網漁の機械化に成功し、機船底曳き網漁の先駆者となりました。
 そして、遠く沿海州や朝鮮半島北部まで出かけては漁場の開拓に努め、さらに
大正の終わり頃に山陰の沖合一帯でホタテ貝(イタヤガイ)が大量発生すると、その乾燥加工の方法を研究して事業化し、関西方面へ販路を開拓しました。

    戦前の賀露漁業協同組合

松葉ガニの休漁期をつくる

 虎太郎が賀露漁業協同組合長に就任した昭和23年頃、漁法や漁具の進歩にともなって、カニは多量に捕獲されるようになり、年々漁獲高が減っていました。
 近い将来カニが枯渇することを心配した虎太郎は、松葉ガニの繁殖時期や生態などを独自に調査・研究し、産卵・繁殖期である2月中旬から10月下旬の間、カニを禁漁にすることを地元の漁師たちに提案しました。

しかし、当時はカニ漁の収入が年間収入の8割を占めていたこともあり、漁師たちの賛同を得ることは簡単ではありませんでした。

 虎太郎は、松葉ガニを守るため、国や県の研究所へ何度も足を運ぶ一方、反対する漁師たちとも根気強く話し合いを続けました。漁師たちと夜を徹して話しあったこともありました。
 このような粘り強い虎太郎の働きかけの結果、当初反対していた漁師たちも徐々に虎太郎の意見に耳を傾けるようになりました。
 虎太郎の思いは、鳥取県だけでなく、兵庫・福井・京都・島根といった周辺の各府県にも広がっていきました。そして、ついに松葉ガニ漁の漁期を11月から3月までとし、その他は禁漁期とすることが定められたのです。
 

     前列左が浜口虎太郎

地域振興と県政・市政への貢献
 虎太郎の温厚で謙虚な人柄と責任感の強さは多くの人々を惹きつけました。
 カニの禁漁期が決まった後も、虎太郎は口ぐせのように「魚は獲ることより、増やすことを考えなければならない」と言って、自分の家に若い漁師たちを集めては、水産業に関する知識を教えていきました。
 
人望のあつかった虎太郎は、昭和14年(1939)に地元の人々に推されて鳥取市議会議員に初当選します。その後、県議会議員となり、賀露港の修築など地元の発展におおいに貢献しました。昭和25年(1950)には県議会議長を務めています。

賀露の港公園に立つ浜口虎太郎の顕彰碑

 こうした業績が認められ、虎太郎は昭和31年(1956)に藍綬褒章を受章しました。
 授章式のために上京した際、鳥取駅で盛大に出迎えようとしていた地元の人々に対し、「恥ずかしゅうて」と帰鳥の日取りを伝えず、こっそり帰ってきたというエピソードが伝わっています。

 

 こうして、海洋資源の保護や近代漁業の発展に力を尽くし、地元の振興だけでなく県政・市政にも多大な業績を残した虎太郎は、昭和34年(1959)7月2日、多くの人々に惜しまれながら、70歳で永眠しました。

 現在、賀露の港の見える公園には虎太郎の顕彰碑が建てられており、その功績をいつまでもたたえています。

                
                (写真提供:浜口哲太郎氏)

 

第16回:石灯籠にみる賀露の廻船商人と尾道

賀露神社拝殿前にある寛政12年(1800)の年号を持つ石灯籠

賀露神社の拝殿前に「御神燈」と大きく刻まれた高さ約4mの1対の石灯籠があります。この灯籠は、寛政12年(1800)に寄進されたもので、石の表面はかなり摩滅していますが、よく見ると側面にたくさんの名前が刻まれています。

このうち、拝殿に向かって右側の灯籠には、近江屋、木屋、見世屋、濱屋、秋里屋、塩屋、油屋、居組屋、雲津屋、網師屋といった屋号を持つ17人の名が刻まれています。「当村廻□衆」とあることから、彼らは賀露を拠点として活動する廻船商人であったと考えられます。江戸時代の賀露には近江屋、秋里屋、居組屋といった地名を屋号に持つ商人や、木屋、見世屋、塩屋、油屋、網師屋といった職種に関する屋号を持つ商人がいたことがわかります。

また、向かって左側の灯籠には、越前屋、竹田屋といった屋号のほか、「尾道石工 勘十郎作」と刻まれています。このことから、この灯籠が尾道(広島県尾道市)の石工の手によって造られたものであることがわかります。
 なぜ尾道の石工が造った灯籠が賀露神社に寄進されているのでしょうか?
 今回は賀露の廻船商人と尾道とのつながりについて考えてみたいと思います。

石灯籠の基礎部の上から2段目に木屋長助ら17名の廻船商人の名が刻まれています。

賀露の廻船商人と尾道のつながりを示す史料として、広島県立文書館が所蔵する「青木茂氏旧蔵文書」の中に「寛政十三年 客衆上下帖」と書かれた帳簿があります。
 
これは、寛政13年(1801)に、鰯屋の屋号を持つ尾道の有力問屋・勝島家に出入りした商人たちを記したもので、そこには全国各地の商人たちの出身地と屋号、商人名、船名、積荷などが記されています。

この中に、賀露神社の石燈籠に刻まれた商人たちの名を見ることができます。これを一覧にしたものが下の表です。これをみると、彼らは自分の船を持って活動しており、積荷として米や糀を運んでいたことがわかります。油屋の船にみえる「加徳丸」「加宝丸」という名称は、当時の「加路」の地名に由来するのかも知れません。

寛政12年(1800)
賀露神社の石灯籠にみえる商人  
寛政13年(1801)
客衆上下帖にみえる船名
同史料にみえる
積荷
近江屋□□郎    
木屋長助 徳宝丸  
木屋文助 幸徳丸 御米
木屋次助 日来丸  
木屋幸助    
見世屋助四郎 清宝丸  
見世屋政七 順徳丸  
濱屋佐助    
塩屋甚右衛門 福泉丸 御米
秋里屋兵四郎    
秋里屋権次郎 順光丸  
油屋清五郎 加徳丸 糀、米
油屋吉左衛門 加宝丸  
居組屋伝七 承久丸  
雲津屋伝兵衛 住吉丸 因州御米
油屋善治郎    
網師屋助五郎    

 

つまり、賀露の廻船商人たちは、尾道へ因幡米をはじめとする物資を船で運んでおり、尾道では有力問屋勝島家を通じて経済活動を行っていたことがわかります。
 当時の尾道は瀬戸内海の交通・流通の要衝であり、国内外から多くの商人たちが集まっていました。賀露の商人たちもそのような各地の商人たちと経済的な交流があったのかも知れません。

 このように考えると、石灯籠が賀露神社に寄進された背景が見えてきます。
 寛政12年の銘を持つ賀露神社の灯籠は、賀露を拠点としていた船持ちの廻船商人たちが寄進したもので、彼らは日本海から瀬戸内海を通って尾道へ米などの物資を運び、尾道では問屋である勝島家を通じて経済活動を行っていました。灯籠が尾道の石工の作であるのも、そのような賀露の廻船商人と尾道の人々とのつながりが前提にあったものと考えられます。

 江戸時代の賀露は、鳥取藩の玄関口として、藩の役所である
御番所が置かれ、全国から多くの商船や商人が行き来していました。しかし、そのような商船や商人の活動を示す史料はほとんど残っていません。

 普段は何気なく目にしている石灯籠ですが、改めて注目してみると、江戸時代の賀露の廻船商人の活動を示す貴重な歴史資料であり、知られざる地域の歴史を我々に教えてくれる「隠れたお宝」なのかも知れません。

(参考文献)「北前船寄港地フォーラム鳥取に係る事前調査業務報告書」(2017年)
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