1200年以上の歴史を持つ賀露神社。賀露の町の総鎮守として、悠久の歴史と豊かな自然を現在に伝えています。
賀露神社は歴史情緒あふれる港町と美しい日本海を望む丘陵上に鎮座する神社です。御祭神として大山祇命・吉備真備公・猿田彦命・木花咲耶姫命・武甕追命の五柱の神様をお祀りしています。吉備真備公をお祀りしていることから、江戸時代には「吉備大明神」とも呼ばれていました。現在でも「明神さん」と呼ばれ親しまれています。
創建年代は不明ですが、『日本三代実録』に貞観3年(861)年から元慶2年(878)にかけて神階を与えられた記録がみえることから、1200年以上の歴史を持つ神社と考えられます。
平安時代には国司の参詣を受け、『時範記』によれば承徳3年(1099)に平時範(たいらのときのり)が船で川を下り賀露神社に参拝しています。
江戸時代の鳥取藩主池田家の家紋が随所にみられます。
江戸時代には歴代藩主である池田氏の祈祷所としてあつい保護をうけ、社殿や社領など多くの寄進を受けました。藩主が船遊びをされた際には必ず当神社へお参りになられたといわれています。境内に建つ随神門や神饌所には藩主池田氏の家紋である「揚羽(あげは)紋」が刻まれています。また社殿にかかる「賀露神社」の扁額は、15代将軍徳川慶喜の実兄にあたる藩主池田慶徳の自筆によるものです。
毎年4月29日に例祭があり、西日本唯一といわれる「もみ火神事」や、隔年で鳥取県無形民俗文化財である「ホーエンヤ祭」が執行されます。また秋祭りには江戸時代以来の宮相撲の伝統を伝える「赤ちゃん泣き相撲」が行われます。
氏子の人々のあつい信仰に支えられながら、悠久の歴史と豊かな自然を現在に伝えています。
宝亀 8年(777) | 吉備真備公の神霊を賀露神社の御祭神としてお祀りする |
貞観 3年(861) | 賀露神へ従(じゅ)五位下の位階が授けられる(「日本三代実録」) |
貞観16年(874) | 賀露神に従五位上の位階が授けられる(同) |
元慶 2年(878) | 賀露神に正(しょう)五位下の位階が授けられる(同) |
同年 | 賀露神に従四位下の位階が授けられる(同) |
同年 | 賀露神に従四位上の位階が授けられる(同) |
天徳 2年(958) | このころ岡村家が社家になったと伝える |
長徳 3年(997) | 朝廷の勅使であった橘行平(たちばなのゆきひら)が賀留(賀露)の津で地元の漁師の協力を得て薬師如来像を引き上げる(「因幡堂薬師縁起」) |
承徳 3年(1099) | 因幡国司平時範(たいらのときのり)が惣社・宇倍社などとともに三島社・賀呂社へ参拝する(2月26日)(「時範記」) |
貞治 3年(1364) | 賀露社・大江社の神主職をめぐって争論がおこる(「師守記」) |
天正 8年(1580) | 羽柴秀吉の軍勢が因幡へ侵攻し加路へ軍勢を派遣する |
天正 9年(1581) | 鳥取城城番として吉川経家が因幡へ派遣され加路へ上陸する(「吉川家文書」) このころ丹後半島の織田水軍が「かろ河口」へ派遣される(「山縣家文書」) |
慶長 5年(1600) | 亀井茲矩(かめいこれのり)と池田長吉(いけだながよし)が領地を交換し、賀露の湊は池田長吉領となる(「因幡民談記」) |
寛永 9年(1632) | 大風により明(みん)国の商船が賀露灘に漂着する(「因府年表」) |
寛文12年(1670) | 小泉友賢が「賀露神社縁起」を記す |
宝暦 3年(1753) | 塩1俵につき銭3毛が「宮銭」として賀露神社へ奉納される(「賀露神社文書」) |
宝暦12年(1762) | 藩の寄進により随神門(ずいじんもん)が建立される この年、神主宅を高台へ移す |
天保 2年(1831) | 湊で取引される干鰯(ほしか)の総量に対して3厘の銭が神社へ上納される(同) |
天保 4年(1833) | 「御船(おふね)」が建造され神社へ奉納される |
安政 6年(1859) | 当神社の御祭神武甕槌命を藩校尚徳館へ勧請する |
明治 6年(1873) | 鳥取城の大太鼓が払い下げられ、うち1つが賀露神社へ奉納される |
明治17年(1884) | 翌年にかけて鳥取士族が賀露港を出発し北海道釧路・岩見沢へ移住する |
昭和 4年(1929) | 吉備真備公1150年祭が挙行される |
平成20年(2008) | 賀露神社春季大祭(ホーエンヤ祭)が鳥取県無形民俗文化財に指定される |
同年 | 第1回「吉備真備杯奉納囲碁大会」が開催される |